ピアジェ教育と当園の歩み

ピアジェ博士との出会い

ピアジェ博士との出会い

ピアジェ博士との出会い  幼児教育に携わり始めた頃は、何をよりどころにして教育をすればよいか、と迷っていました。1948年の幼稚園教育要領試案を見ても、「興味や関心を持たせる」という言葉が出てくるばかりで、なぜそうしなければならないのかという理論的根拠も見あたらなかったものです。(この試案は1963年にそのまま幼稚園教育要領となりました。)  このように迷っていた時に、ピアジェ博士の「幼児の世界観」「判断と推理」(大伴茂博士訳)などを読ませて頂いたのが最初の出会いでした。
当時、大人から見た幼児教育論はあっても、幼児の
 幼児は川や煙、雲などには命があると思っている、とありましたが、「本当かな」と思って実験してみると、本当に幼児はそう思っているのです。
 そこで、教師がよく使っている言葉の中から「静かにしなさい。」という言葉を選んで、子供達がどのように理解しているのか実験してみましたところ、「お口を一文字に結ぶこと」「お手てはお膝」などと答えたり、驚いたことには、ほとんどの園児(年少組)が「まぁ坊のこと」と答えるのです。びっくりした私はまぁ坊に同じ質問をすると、「先生が頭をなでてくれること」「かわいがってくれること」と答えたのには、二度びっくりしてしまいました。
よく聞いてみますと、先生はやんちゃ坊主のまぁ坊さえ静かにしてくれると全体の保育が進むので、まぁ坊に向かって「いい子だから静かにしてね」と言って頭をなでたり、時にはたまらなくなってまぁ坊に「静かにしなさい!」と怒ったりしていたのです。
なるほど、大人の言葉を幼児は独自の理論で結びつけているものだ、ということを実感して以来、ピアジェ理論にのめり込んで半世紀を過ぎてしまいました。

ジュネーブで会いましょう

ジュネーブで会いましょう  1962年には、ピアジェ理論を知能の発達に応じて体系化して、「かずあそび」「ことばあそび」「かんさつあそび」という教材を作成しました。当時としては珍しい、要素を切り抜いて操作する画期的なものでした。  1968年に、ピアジェ博士に「日本でピアジェ理論を応用して幼児教育に適応している者ですが、もし私の理解が間違っていれば博士に申し訳ありません。博士としても理論を発表した責任があると思いますし、是非来日して現場を見て頂けないでしょうか。」といった内容の手紙を出しました。
その年の11月にピアジェ博士から「ジュネーブで会いましょう」というお返事がきた時は、天にも昇る気がしたものです。  11月13日、雪の積もるジュネーブ大学で博士にお会いすることができました。私が作った教材をお見せしたところ、大変喜んで頂き、インヘルダー博士にも紹介されました。1970年の初来日は、このようにして実現したのです。その後、長男がジュネーブ大学に留学していたことでもあり幾度となく博士を訪問し、ご自宅の研究室へも寄せて頂きました。
1973年には「ファーストシリーズ かず・ことば・かんさつ」の教材を監修して頂き、今もピアジェ資料室に永久保存資料として保管されています。
ピアジェ博士像「知能の発達」  1996年9月のピアジェ生誕100年祭には、さらに操作しやすい教材「かず・ことば ペタペタシールあそび」を完成させ、ピアジェ会会長ボネッシュ博士に見て頂き、世界でただ一つしかない創造的教材であると言って頂きました。
 私の生涯は、ピアジェ理論を現場に適応実践して幼児教育を充実していきたい、という一念でいつの間にか年を重ねてきました。
 21世紀はさらに博士の理論が教育改革の柱になっていくでしょう。あれこれ振り回されてきた幼児教育が、足が地に着いた確かな科学的理論を土台として進められることを心から祈念しているものです。

ピアジェ博士来日

ピアジェ博士来日に向けて

ピアジェ博士来日に向けて  1968年にピアジェ博士の来日が決定してから、国際会議の準備で世界40ヵ国を50日間で廻って開催の案内をしました。日本ではピアジェ博士の理論は心理学の関係者以外はあまり知られていなかった為、幼児教育関係者にその理論を理解して頂く為に、地区別に研究会を開催しました。
幸いに1962年に要素を切り抜いて貼る操作ができる教材を考案し、体系化していましたので、教材を通じて理論を普及することができました。
 また、翻訳ではない、現場の実践的理論に裏付けられた研究を発表しなければならないと必死で資料を作成し、論文を整理するなど、苦労の連続でした。
当時、京都大学教育学部長鰺坂教授より紹介された心理学部長、今は亡き園原太郎教授に監修して頂きました。その時に、「あなたは気づいていないかもしれませんが、この論文は日本の教育を変える原動力になる論文ですよ。」と励まされ、とても勇気が湧きました。

1970年読売新聞より

1970年読売新聞より どこからともなく博士の来日が伝わると、有名書店の本棚には驚くほどのピアジェ理論の翻訳本が並ぶようになりました。それまで日本の研究者は、博士の名前を伏せて博士の理論を紹介していましたが、名前を明記し始めたことは、いよいよ教育改革の黎明期が訪れたと感じました。

温かい博士に抱かれて

温かい博士に抱かれて 1970年6月21日、ピアジェ博士が愛弟子のインヘルダー博士と共に羽田空港に到着された時は、今までの苦労が吹き飛び、読売新聞社の金子記者と共に手を取り合って涙したものです。
博士は前年に手術をされていましたので、来日が実現するのか、長時間の飛行にお疲れではないかと、本当に心配していました。それらを乗り越えて来日して下さった博士を見て、とても感激しました。

鴻池学園第2幼稚園見学

鴻池学園第2幼稚園見学 6月22日に博士はインヘルダー博士と共に鴻池学園第2幼稚園を見学されました。

保育室で子供達と

保育室で子供達と 子供達があさがおを観察してつるや葉を粘土で形作っていく様子や、三角形の粘土作りの様子を子供の側に座り込んで観察され、とても熱心に見入っておられました。
博士は子供達に質問したりしながら、子供達各々の発達段階を興味深げに見ておられました。

笑顔の博士

笑顔の博士 幼稚園の子供達から千羽鶴をプレゼントされ、笑顔の博士

際幼年教育者会議 開会

際幼年教育者会議 開会  6月25日には、京都国際会館で国際幼年教育者会議が開かれました。
1600名の現場の教師、200名の研究者、世界12ヵ国からの70名の参加者、その中には大学教授やドイツからはモンテリーの会長もみられました。
 ピアジェ博士は会議当日に「松井、世界で初めて発表する論文だから、よく聞くように。」とおっしゃり、演台に上がられました。それまでの博士の「児童の世界観」「数や量の発達心理学」「記憶と知能」その他の理論を基礎にして50年にわたる研究を総括し、「創造的教育論」を発表されたのです。朗々と自信にあふれた、ライオンが咆哮するような力強い言葉を聞いたとき、いよいよ世界的に教育の大転換の始まりが訪れたと感じました。

創造的教育論

創造的教育論 創造的教育論を簡単に述べると、次のような内容です。
それまでの教育理論では、常に子供を小さな大人、すなわち子供も大人と同じように考えたり感じたりするけれども、ただ経験が少ない為に、大人のような知識をもっていないだけだと考えられていました。その結果、子供は無知な大人とみなされるので、教育者の仕事は知識を詰め込む、いわゆる受動的記憶に偏ってしまいました。
しかしピアジェ博士は、子供の思考は大人とは異なり、記憶は知能の発達段階に応じたもので、子供の自発性に依存する発明的な能動的記憶こそが知能の発達を促進させると唱えました。
例えばアサガオの観察をする場合、教師が黒板にモデルを描き、それを模写するよう指導した場合、3歳児でも上手に描いたように見えますが、少し視点を変えて描いてみるよう伝えると、子供は難しくて描くことはできません。これは単に先生が黒板に描いたモデルを真似て描いただけで、自分で考えて描いたわけではないからです。
それとは逆に、自分の知能の発達に応じてアサガオを育てながら記録させていくと、当初はなぐり描きでも、少しずつ内と外の位置関係や直線と曲線の違い、根や葉の重なり具合、色の濃い薄いなどの加減を自分で発見するたびに、その表現が変化していきます。
このような能動的知能はいつまでも留まることなく発達するもので、生涯を通して役に立つ能力です。

会場の参加者

会場の参加者 参加者で手をつなぎ、歌を歌いました。

読売テレビ出演

読売テレビ出演 6月28日、ピアジェ博士は学園長と共に読売テレビの番組「幼児教育を考える」に出演されました。 

ピアジェ博士からの直筆メッセージ

ピアジェ博士からの直筆メッセージ このメッセージは、テレビ出演後に日本の保護者に向けて頂いたものです。


あなた達の子供を愛し続けなさい。
そして子供達がありのままの姿で見てもらえるように、また、子供達が自分の力で発達し、自分の力で成長していく機会を与えて下さい。
その為には、お母さん達が子供達に自発的な活動を十分に発揮できるように心がけてあげることが大切です。
J.ピアジェ


J.ピアジェ博士が首席講師として記念講演された「創造的教育論」は、世界的規模の教育改革の基本課題となりました。
我が国でも、1990年幼稚園教育要領改訂の総論にピアジェ理論が取り入れられています。

ピアジェ生誕100念祭の思い出

懐かしい再会

懐かしい再会  ピアジェ博士生誕100年祭を1996年10月にジュネーブ大学を中心に開催する打合せの案内が届いた時、博士の胸像を寄贈し、永久にその功績を伝えなければ、とためらいもなく自然に思ったことは、自分でも不思議に思います。
早速私はジュネーブ大学のピアジェ会と連絡を取り、1995年7月に関係者と打合せをする為、ジュネーブを訪問致しました。
 来日されたことのあるインヘルダー博士、ジリエロン博士、ロベル博士などに温かく迎えて頂き、「胸像の寄贈はとても感謝している。」と大変喜んで頂きました。大学との打合せをすませた後、インヘルダー博士とジリエロン博士の案内で、過去の学長や功績のあった沢山の胸像を収納してある部屋へ案内して頂きました。その時、インヘルダー博士が「男の胸像ばかりではないか!」と、誰ともなく言った言葉が、今も私の心の隅に残っています。彼女がピアジェ博士の愛弟子として、きめ細かな幼児の実験を通して理論を補強した功績は実に大きいのです。 
 その後、インヘルダー博士の招待で食事に誘われた時は、「ピアジェ博士も亡くなり、シミンスカ博士(ピアジェ博士と数量の問題を共同研究された)もモスクワ大学の教授になられた後に亡くなってしまい、周囲が淋しくなってしまった。」とおっしゃった姿が懐かしく思い浮かびます。
私が「1978年にジリエロン博士が来日された時は、若々しい素敵なお嬢さんでしたが、今では副学長となり、博士の意志を継いでおられることはとても嬉しいことです。」と答えると、インヘルダー博士はにっこり笑って「ピアジェ博士は日本の印象を語る時はとても楽しそうにしていましたよ。私も日本での思い出はとても大切にしています。勿論ジリエロン博士も日本びいきですよ。」と言っておられました。

ピアジェ博士の胸像寄贈の準備

ピアジェ博士の胸像寄贈の準備  ピアジェ資料館の館長で100年祭事務局代表のボネッシュ博士、トライフォン博士も、大学との交渉やピアジェ博士の家族との打合せ、大学の敷地がジュネーブ市のものである為に胸像建立の位置の決定、その書類作成、役人との交渉などの為に走り回る等、関係者は大変な苦労をしたようです。
 ピアジェ博士の家族との交渉の際には、例えば大学側は博士の胸像はパイプを口にくわえたロイド眼鏡の普段のポーズにしたかったようですが、博士の家族からは眼鏡をかけた姿はきつい印象になるので、家庭で眼鏡を外した優しい顔にしたいとの強い要望があり、その意志を尊重して眼鏡をはめていない胸像になりました。
 彫刻は博士の親族であるフランス人のギーフランジャン氏に依頼したので安心して任せることができました。また、日本における博士の生誕100年祭の開催には、講師はボネッシュ博士が適任であると思い、その旨をお願いしたところ、快く引き受けて下さったので、ジュネーブ訪問の目的を果たして帰国することにしました。

ピアジェ生誕100年祭参加

ピアジェ生誕100年祭参加  翌年7月、ピアジェ博士の100年祭もボネッシュ博士参加のもと無事に終え、本番のジュネーブ大学における100年祭を待つばかりになりましたが、胸像完成の知らせがなかなかこないので、とても心配したものです。
1996年9月8日にジュネーブの飛行場に到着した出口で、大学の使者から10日の夕方に除幕式をするという招待状を受け取って、初めてホッとしたものです。

胸像の除幕式

胸像の除幕式  胸像の設置場所はピアジェ博士に最も相応しい場所、大学の中のカルビン広場の中央に設置されることになりました。前日までに台座は完成していたのですが、除幕式当日の朝になって胸像を台座にのせるほど、慎重に進められていたようです。
 9月10日には、モンブランの陸橋にスイス、ジュネーブ、日本の日の丸の旗を揚げて歓迎して頂き、ジュネーブ市長、ジュネーブ大学副学長、世界中から集まった1000名を越える著名な学者に囲まれて、100年祭の幕は開けられました。

ジュネーブ市長 スピーチ

ジュネーブ市長 スピーチ  ジュネーブ市当局の名において、本日ここに、ジャン・ピアジェ博士の胸像を除幕致しますことを大変光栄に存じます。 "Nal n'est prophete en son pays"(予言者故郷に容れられず)という格言が当てはまる人と言えばまさに、ピアジェ博士がその人です。
 実際、彼は今世紀最大の影響力をもった知識人の一人であり、30数大学の名誉教授であり、国内及び国際的数々の名誉称号をもっており、その光は全世界を照らし出し、今も照らし続けているという人でした。そういう偉大な人物であったにもかかわらず、当時彼は我が国ではほとんど知られていませんでした。  ピアジェ博士を自転車好きで、ベレー帽をかぶっていて、いつもパイプをふかしていた学者だと記憶している人もいるでしょう。彼の研究室はいつも素晴らしく散らかっていました。だらしない人と思われるかもしれませんが、彼は実にそのようなことを超越した人物でした。
 彼は、あらゆる科学の分野に興味をもち、力強く取り組み、成功を収めました。心理学者、教育者として一番よく知られていましたが、それだけではなく、生物学者であり、社会学者であり、動物学者であり、自然科学者であり、植物学者であり、認識論者であり、哲学者でもありました。
 近代教育学の礎であり、バカンスの間でさえも一日何時間も机に向かい、研究したり執筆したりすることに熱中しました。   ピアジェ博士は、とりわけ子供達をよく観察し、質問し、子供達の言うことに耳を傾けました。博士は我々に認識取得過程を理解させてくれました。この内気な博士の科学的研究の陰には、子供達、そして子供達が成長した大人達に対する多大なる愛情、また生きとし生けるもの全体に対する大きな情熱が存在していたのです。
 博士は国際教育委員会会長、ユネスコスイス委員会委員長としてジュネーブの光を遥か遠く彼方までもたらしました。我が国の国境を越えて、エール大学、ハーバード大学等の有名大学で教鞭を執りました。ピアジェ博士の名前は、世界中の学校に知れ渡っています。博士の研究についてのセミナーが常に開催され、何千人という人々が出席しています。
 ピアジェ博士の国際的評価を示すものとして、本日日本幼年教育会の松井理事長からジュネーブ大学に胸像が寄贈されました。ジュネーブ市はこの素晴らしい心温まるご厚意に、心から御礼申し上げますと共に、幼年教育会の皆様にも市当局を代表してお礼を述べさせて頂きます。
 本日、日本の教育者の方々のおかげで、ジュネーブ市の中心、我が大学の誇るこのパスティオン公園に、フランス人彫刻家ギー・フランジャン氏製作のジャン・ピアジェ像を見いだすことができます。
 また、この数ヶ月間、ピアジェ生誕100年祭の為に大変な働きをなさった委員会の方々、特に委員長のベルナール・ルヴェラ氏に心からの感謝の意を表します。
 ジャン・ピアジェ博士の言葉で私のスピーチを終わりたいと思います。

学園長 スピーチ

学園長 スピーチ 除幕式メッセージ

 偉大なるピアジェ博士の生誕100年祭を祝して、博士の胸像を寄贈できましたことは、ジュネーブ大学はじめスイス政府、ピアジェ会、博士のご遺族のご厚意の賜物と心から感謝致します。
 私ども幼児教育者に、素晴らしい光を与えて下さった博士の理論は、21世紀教育の指標となり、我が国においても幼児教育ばかりでなく学校全体の改革の土台となり、一般化しつつありますことを博士にご報告致します。輝く博士の功績はこれからも永遠に輝き、発達心理学の科学的分析がどの分野にもゆきわたり、理解し合う平和な世界に向かって努力して参りたいと思っています。
 今後とも、この素晴らしい学問がジュネーブ学派に受け継がれ、益々発展致しますよう祈念すると共に、関係者の皆様に深く感謝して御挨拶とさせて頂きます。
1996年9月10日  
日本幼年教育会 理事長 松井 公男

インヘルダー博士の講演

インヘルダー博士の講演  1996年9月13日、ジュネーブ大学ピアジェ大講堂にて、ジリエロン博士に寄り添われながらインヘルダー博士は学術的研究の記念講演をされました。博士は、ピアジェ理論が社会学的にも認められてきたことは嬉しいことだという趣旨のお話をされましたが、そのお姿はさすがに往年を忍ばせる堂々たるものでした。この講演がインヘルダー博士の最後の講演となりました。
(1997年2月16日逝去 享年84歳)

学園長の展示資料

学園長の展示資料  ジュネーブ大学ピアジェ大講堂に入る廊下に、ピアジェ博士の写真や私の研究した資料の大型パネル20点が展示されましたことは、生涯を通じて忘れることのできない喜びであります。

ピアジェ博士胸像

ピアジェ博士胸像 JEAN PIAGET 1896年~1980年
前人未踏の発生的認識論を築き上げられた20世紀の巨人ジャン・ピアジェ博士に感謝を込めて

ジュネーブピアジェ会 ゴールド会員
日本幼年教育会 理事長 松井 公男
ならびに会員一同より
1996年9月

あとがき

あとがき  ジュネーブ大学主催のピアジェ生誕100年祭には、世界各国から1000名もの研究者が集まり、偉大なる博士の理論の再確認とこれからの課題について討議されたことは、いかに博士の業績が大きいかがうかがわれました。  私も参加させて頂き、博士のご逝去以来、念願であった博士の胸像を寄贈することができ、一つの心の区切りをつけることができました。
 また、ジュネーブ大学より、「あなたの研究活動は、アジアを代表するものである」と評価して頂き、テレビ出演もさせて頂きました。
 博士を迎えて、1970年の国際幼年教育者会議をはじめ、72年にはブルナー博士、78年にはジリエロン博士を迎えての国際会議、また79年にアメリカ テンプル大学主催で開催されたピアジェ会では、博士よりピアジェ会ゴールド会員に日本人で初めて指名して頂き、またピアジェ理論のインターナショナル・スペシャル・アドバイザーに選んで頂きました。その際、博士の促しで、会場中の教授達が立ち上がり、拍手をして頂いた時の嬉しさは、今でも忘れることができません。 その後、ジュネーブ学派からはジリエロン博士、ボネッシュ博士と数々の温かい手を差し伸べて頂き、数え切れない思い出はつきません。
 21世紀はさらに博士の理論が教育改革の柱になっていくでしょう。日本の教育があれこれ振り回されず、しっかりと地に足のついた確かな科学的理論を土台として進められることを心から願っています。